触れた首筋に刻まれる温かく物悲しいリズムを知っているか? 石に花を添えることにした。取り出した鋏で茎を切ろうとして思 ご わ つ 魂が流れ出る音楽を。ところどころ土に汚れて強付いた白い毛並 いとどまる。ファーネックを隔てて立ち並ぶ遠い山々のその色と はさみ みの深くに突き刺さした愛用の鋏を引き抜くと、炎と同じ色をし 切れ目のないグラデーションをした仄青い花の。この花の命と兎 た生命を燃やす液体が柳刃を濡らした。ひとつ、ふたつ、痙攣す の 命 と 何 が 違 う の だ ろ う か? そ ん な こ と は 考 え て も 仕 方 が な るように小さな肢体が波を打つ。生きている。その刃をためらい い。僕はただ鋏をチャキリと鳴らした。 なく真白い腹部に突き立て、引き上げれば、拍動する臓器の街並 僕が鋏を持ち歩く理由は至ってシンプルだ。言いつけられてい フ ィ ガ ロ みは祝祭のごとく華やかだ。僕は忘れられるのだろうか。最期の るから。街で唯一の理容室の息子が鋏を扱えないのもよろしくな 懇願をするその瞳が鈍く濁ってゆくのを。そしてひときわ大きく いらしい。本当だろうか? 僕は父がまともに理容の仕事をして 震えたのち、壊れたブリキのおもちゃのように前後させていた前 いるのを見たことがない。それに父は街でも相当の変わり者とい 足が次第に動力を失って……止まった。 うことだ。軍を退役して家業を継いだということは、たまにやっ かまど 狭い厨房で下処理を終えた僕がふと顔をあげると、竈の熱を受 てくる怪しげな男たちの中にいる口の軽い輩から聞いたのだ。僕 け る よ う に 干 し た 兎 の 長 い 腸 が 左 右 に 揺 れ て い る。 そ の 向 こ う、 はただ何もかもが怖かった。 視界に入った階段からは男が鈍い音とともに何かを引きずり下ろ していた。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ ちょうどその男と目線が合い、僕は慌てて俯いた。また手際が 悪いだの何事か咎められるのではないかと思ったからだ。しかし その日は『外出』の日だった。夜の街を大きな鋏を持った父に 予想に反してお咎めなし。ただ送られた目線でまた仕事がひとつ 連れられて往き、通りに沿って長く並ぶ石積みの住宅の一室にて 増えたことに気付きため息を吐いた。気を取り直して几帳面に手 待機を命じられる。藻のような汚泥が散りネズミの這う階段を上 入れをされた調理道具を並べていく。忙しい。世の子供というの がるとき、灯りの点いた通りの向こうの窓から身を乗り出した指 はこんなにも忙しいものなのか? それはわからなかった。級友 をさす子供の姿があったが、すぐさま母親が引き戻した。僕はそ などといった同世代の知り合いなどいないし、そもそも僕は学校 の時『母』というものについて考えていた。汚い者扱いされたこ というものに通ったことがなかったからだ。浅い思考は淡い桃色 とよりも。 をした肉がスキレットの上で焼けていく煙に巻かれていった。 僕に与えられた仕事は三つだけだった。灯りを二時間おきに五 分ほどつけること。一度だけ来訪者があるので速やかに扉を開い ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ て素通りさせること。それからはもし来訪者があっても絶対に扉 を開けないこと。後は自由にしていいとのことだ。 まだまだやることはあった。それでも裏庭で真白いシーツを広 僕は与えられた自由時間をただ無心で鋏を動かし切り絵を刻ん げると先ほどの兎を思い出して、僕は隅に積んでおいた小さな墓 だ。あの仄青い花が手折られる代わりに、真白い兎の命を意味の あったものにするために? それとも扉を開けるように懇願する ら無数の脚をもつ生物が這い上がってくる感触が吐き気のように 誰かの声を意識の外に蹴り出すために? 果たしてその行為自体 迫り上がってきて、わずかばかりの理性を埋め尽くしていく。 に意味があったかはもう分からない。その『外出』の夜も全てが そ れ か ら ど れ く ら い の 時 間 が た っ た だ ろ う か。 気 付 け ば 僕 は フ ィ ガ ロ 終わって、出来上がった花を描いた切り絵を添えようと積み上げ 理容室にいて、極めて清潔に保たれていた厨房の床が胃液で穢れ た墓石に向かうと、そこには荒らされ、踏みにじられ、変わり果 ていた。意識から取り残された荒い吐息が自分のものと理解する てた庭の姿があるだけだったのだから。 と、それと重なるように湯気が漂ってくる。その元である火にか けられた大鍋にはグツグツと煮られている何らかの肉料理が出来 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 上がりつつあった。 ま た 別 の『 外 出 』 の 日 の 帰 り だ っ た。 僕 は 父 と 並 ん で 露 店 で ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 買ってもらったラム肉のミートパイを頬張っていた。珍しく…… というには記憶にない。おそらく初めてのことだった。それくら あ く る 夕 刻 、僕 は 週 ご と の 買 い 物 を す べ く 街 へ 繰 り 出 し て い た 。 いのことだから残っているのは質の悪い油の感触だけで当然味な 細 か い 日 用 品 や 買 い だ め の 食 材 を 手 に 入 れ る た め だ。 父 か ら 預 んて覚えていない。簡便な昼食というだけで父にとっては特に意 かった小額紙幣はいつも必要より幾分か多かったがそれで何かを 味などないのだろう。それでも僕は嬉しくてチラチラと父のこと 買い食いしたりしたことはなかったし、そのような気になったこ を見やっていた。しかし彼の目線はある一点を捉えている。そこ とすらなかった。罰があるからじゃない。実際、財布を落として には身なりのいい裕福な家庭の父と子が一匹の犬を散歩させてい し ま っ た と き な ど は 蒼 白 に な っ た が 咎 め ら れ る こ と は な か っ た。 た。その時、路地で立ち話をする婦人が資産家を指して「詐欺師 かと思えば深夜にどうしてもお腹が空いてしまってトマトを齧っ が犬連れてるよ。どっちが犬だか」などと陰口を叩いているのが た 時 な ど は … … 。ミ ー ト パ イ と 犬 。あ の 一 件 以 来 僕 は 悩 ん で い た 。 聞 こ え る 。 そ れ を 聞 く な り 父 は「 犬 か … … 確 か に ち ょ う ど い い な 」 こんなことを考えたのは初めてだった。目を閉じると幸せそうな と、そう呟いた。瞬間、僕はその意味を察して必死に断った。思 親 子 の 姿 が 思 い 浮 か ん で 仕 方 が な い 。何 が 必 要 で 、何 の 意 味 が あ っ いつく限りの言い訳をしたと思う。ささやかな抵抗だったけれど てそう指示したのか。どうしても父の基準が分からなかった。 僕は意味のないことはしたくなかった。けれど次の一言で全てが どうも僕は頭の回転は速くない割に考えるのは嫌いではないら 決まってしまったのだった。 しい。買い物を終えたにもかかわらず思索に耽っていると見慣れ ― ― 『 独 房 』。 僕 は ど の 家 に も そ う い っ た 設 備 が あ る と 思 っ て ない建物にたどり着いていた。そこは教会のようだった。完成し フ ィ ガ ロ いたのだが、どうやらこの理容室だけらしい。その言葉を聞くだ た光景を見るのは初めてだったから突然に現れた綺麗な建物に僕 けで、機械式の音声再生装置から掠れて怨霊のようになった短い は見とれてしまっていたのだ。 フレーズが延々垂れ流される暗闇の空間の、じっとりと湿る床か そのとき「見学していかれませんか?」と、どこからか男の声 がした。現れた祭服の神父様は何も考えられないという風に立ち 尽くす僕をただ微笑みながら見つめていた。瞬間、僕は父が教会 最悪の事態は免れた。そう思った僕は惰弱だろうか? 戦慄の 嫌いだということを思い出し、一言「すみません」と告げると逃 あまり「もしかしたら荷物を無くした罰などないのでは」と一瞬 げるようにその場を後にした。背中から一言「また明日」そう聞 考えてはみたもののそんなわけはなかった。それでもやっぱり最 こえたような気がした。 悪 の 事 態 は 免 れ た と 僕 は 思 っ た。 恐 れ て い た よ う な 怒 り は な く、 父は買い物のやり直しと夕食抜き、ベッドで眠らず炉の番をする ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ よう僕に命じたのだ。 これもやはりどこの家庭にもあるものと思っていたのだけれど フ ィ ガ ロ た だ そ の 日 が あ る だ け の 僕 に 明 日 な ど は な か っ た 。『 外 出 』 で そ う で は な い ら し い 。『 精 製 炉 』 は 理 容 室 で 二 番 目 に 居 た く な い はない外出をできる時間を取ることなどできない。そう思った僕 場所だ。まずなにより狭い。子供とはいえ背の高い僕は頭をぶつ は気付けば踵を返していた。神父様に招かれて入ったのは、まだ けないよう屈まないとならないし、半地下にあるため窓は換気用 一般に開かれていないのか誰もいない真新しい教会。その輝くス に壁の上部五分の一くらいの場所に二つがあるだけだ。それに加 テンドグラスへと差し込む夕陽の咎めに溶けてしまいそうだった えて、青白く光る炉の胎内から何かが言葉ではなく意識や体験の 僕 は 、黒 い『 懺 悔 室 』と 呼 ば れ る 部 屋 へ 逃 げ 込 む よ う に 入 っ て い っ 断片といった形で伝わってくるのだ。一晩中それに付き合わされ た。 果 た し て こ れ は 正 解 だ っ た の か。 そ れ も ま た『 分 か ら な い 』 るのが苦痛でなかったら何なのだろうか。 という箱に大事にしまっておく以外にはなさそうだ。 深夜、朦朧とした意識の中で炉を絶やさぬように小さな結晶を く もし全てを吐き出したのならば喉が張り裂けてしまいそうだっ 焼 べ る と 、 そ こ か ら 見 た こ と の あ る よ う な 顔 が 現 れ た 。『 僕 の 犬 た僕は、犬の一件だけをほとんどを伏せ、なるべく柔らかい表現 を返して』現れた少年にそう言われたような気がして僕は座って を使って神父様に話した。事故で見知らぬ人の飼い犬を傷つけて いた椅子を倒して飛び上がってしまった。拍子に頭を狭い天井に しまったと。彼は黙ってそれを聞いていた。 ぶつけてしまい身悶える。炉の見せる幻覚だと理解した僕が落ち 覚えていたのはそこまでで、その帰りを僕はどこをどう歩いた 着 き を 取 り 戻 す が 、ま た し て も 同 じ 声 が す る 。「 ― ― お い 、お い っ のか定かではなかった。持っていたはずの荷物は何もなく、果て て ば!」 と。 僕 は 周 囲 を 見 渡 す が 当 然 な が ら ど こ に も 誰 も い な ごう のない焦燥に駆られていた。ただ一つ覚えていたのは最後に神父 い 。た だ 轟 と 炉 の 燃 え る 音 が す る だ け だ 。 し か し「 こ っ ち だ よ ! 」 様が言った『誠実でありなさい』という言葉だけで、その一言が と声のする換気用の窓を見やったとき、僕は再び驚いて頭を天井 ずっと『独房』の壁に塗り込められた残響のように耳の奥で鳴っ にぶつけてしまった。頭を摩りながら視線を送った先に「なにを ていた。 しているんだよ」と言わんばかりに目を覆う少年の姿があったか らだ。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 僕は父に悟られないかとても心配だったが、そのままにしてお くわけにもいかずその少年を窓から迎え入れた。小柄な、ともす 彼 は 言 っ た 。「 言 い な り に な る の は も う 止 め よ う 。 結 局 お 互 い 親 れば少女にも見えるほど華奢な少年、その見覚えのある顔を見て 父みたいになっちまう」そうして「こんな服なんか着たくないん 僕は三度天井と相まみえる羽目になりかけた。それをどこ吹く風 だ」と上等な上着を橋から投げ捨てた。やはり浅はかだろうか? といった感じで少年は持ってきたであろうものを手渡す。中身の 僕は父親に言われるまま商売を継ぐことをよしとしない彼に、夢 入 っ た 買 い 物 籠 だ っ た 。ま ご つ い て い る 僕 に 彼 は 驚 い た よ う で「 覚 を語る輝かしい瞳を持つ彼に、僕は強い共感を覚えたんだ。そし えてないのか?」と言う。どうやら露店に寄った日に見かけたこ て最後に彼はこう言った。 とではなく、教会の帰りに出会って少し話をしたことらしいがそ 「 許 す! 無 益 な 殺 生 は 嫌 い だ が お 前 は 正 直 に 話 し た か ら な。 今 ちらはさっぱりだった。 日のことは二人だけの秘密だ」 燃え盛る炉を一瞥して、少年は「気持ちわりぃ」とだけ言うと 僕 が 何 か 言 う の を 待 っ て い る よ う だ っ た。 僕 は「 あ の ……」 と、 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ うろたえることしかできなかったが、そこへ少年が「やっぱりお 前がやったのか?」と甲高いのをわざと低くしたような声で言う 翌日。買い物籠は戻ったものの言いつけられていた買い物に出 の で 僕 は 犬 の こ と だ と 思 い 、 黙 っ て 頷 い て 答 え た 。「 ど う し て ? 」 ないわけにはいかず僕は途方に暮れていた。行く当てなどなかっ と少年は尋ねた。それに僕は「分からない」と答える。本当にそ たからだ。眠い目を擦って昨夜の少年を探してみるがそんな都合 さ ま よ う 思 っ た か ら だ 。 少 年 は し ば ら く 炉 を 見 つ め て 、「 別 に 犬 が 大 事 よく見つかるわけもなく、彷徨った目線に飛び込んできた教会も だ か ら じ ゃ な い 。あ れ は 親 父 の 商 売 道 具 だ 。俺 に は ど う で も い い 」 人が集まっており、なんとなく後ろめたくて向かう気にはなれな そう言った。内容はもちろん、身なりに反した腹を割った態度に かった。結局悪くなっていた食材だけを買いなおして戻った僕を も僕は呆気に取られていた。追い立てるように少年が「嘘を吐く 迎えたのは鈍く鳴る樫の扉ではなくいくつもの遺体だった。 な。理由を言え」と続けると僕は少し泣きそうになるが、がしり さながら雨上がりの廃品置き場。大量の血液が放つ錆びた金物 と 胸 倉 を つ か ま れ そ の 目 元 に た ま っ た 涙 を 引 っ 込 め さ せ ら れ る。 の臭いに下処理に失敗した獣の肉のような腐臭が混じって周囲を そうしたかと思えば急に手を放し、落ち着いた声で「行こう」と 穢している。もし初めてこの臭いに遭遇したならば吐き気だけで 彼は言った。 は済まなかっただろう。僕は……初めてじゃなかった。武装した それから炉の番があると何度も渋る僕を強引に連れ出した彼 『ならず者』といった風貌の男たちだった肉塊を見下ろしている フ ィ ガ ロ フ ィ ガ ロ に 、僕 は あ り の ま ま を 話 し た 。 理 容 室 に つ い て 、父 に つ い て 、 『外 と 、 理 容 室 か ら 父 が 現 れ 、「 片 付 け て お け 」 と だ け 言 っ て ま た 奥 出 』に つ い て 、そ し て 兎 や 犬 を 殺 め た こ と に つ い て 。 彼 も ま た 語 っ へ と 去 っ て い く 。僕 は 何 が あ っ た の か を 尋 ね よ う と 迷 っ て い た が 、 た。分刻みのスケジュール、貴族の欺き方から女性の抱き方まで 尋常ではなくギラついた眼光を見て断念した。それと同時だった の教育、一族の繁栄のために犠牲になるべきという思想……夜さ か 、 奥 か ら う め き 声 の よ う な も の が 聞 こ え る 。『 独 房 』 だ 。 僕 は りも近い頃、街の中央に掛かっている石橋から遠く山々を眺めて 直感した。ぞわりと身体中の体毛が直立していった。深く呼吸を え ず しようとして腐臭を思い出し嘔吐いてしまう。僕はもう泣きなが 喜にも似た尖り声が遠く聞こえてきた。屋内では斑に模様の入っ ら意識を失わないように水をかぶって ならず者 の遺体を庭へ た石の廊下に人影がたおれており、その中にはいくつか知ってい 引きずっていった。 る顔もある。金で父を裏切った者たちなのだろう。しかし虱潰し に し た は ず の 屋 内 に 家 主 で あ り 、標 的 で あ ろ う 資 産 家 の 姿 が な い 。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ そのとき、ふと父が階段で足を止めた。そしておもむろに石の段 板をはずすと、そこには昨晩出会ったあの少年が狭い隙間に震え この日はいい夜だった。何事もなければ――とりわけ小さな街 ながらうずくまっていたのだった。 というわけではないが、それでも似つかわしくないほど大きな都 会風の邸宅、その鉄門を守る壮年の男の絶命する短く低い掠れ声 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ が 格 子 を 揺 ら し た 。『 独 房 』 で 聞 き 出 し た 、 刺 客 を 差 し 向 け た フ ィ ガ ロ 相手への報復が始まったのだ。同行を言いつけられた際に理容室 「 五 分 だ 」 父 は 一 言 そ う 言 う と、 僕 の 手 に 先 端 の 鋭 利 な 大 ぶ り が襲われた理由を尋ねると、父は「犬だ」と簡潔に答えた。続け の 鋏 を 握 ら せ て そ の 場 か ら 去 っ た。 そ れ か ら 少 し の 沈 黙 の 後、 て尋ねた「犬の仕返しであんなことを?」という僕の問いに父は 「 …… ど う し て?」 と、 僕 は や っ と の こ と で 彼 に 尋 ね た。 彼 は 何 答えなかった。いずれにせよ僕は気付いてしまった。そして同時 も 言 わ な か っ た 。「 君 が 言 い つ け た の か ? 」 僕 は 鋏 を 下 ろ す 。 す に どうして という疑問で頭の中がいっぱいになった。 ると震えるような声で彼は否定した。僕も信じたかった。あの豪 邸宅の門を抜け、手にした大きな鋏を肩に担ぐと父はおもむろ 気 な 少 年 が い ま や 容 姿 と 同 じ 、少 女 の よ う に 怯 え て い る の だ か ら 。 に取り出した酒瓶に咥えていた火のついた紙巻き煙草を落として け れ ど あ の 刺 客 の せ い で 僕 も 死 ぬ か も し れ な か っ た。 い や、 放り投げた。乾燥した空気を伝って手入れの行き届いた短い芝生 死ぬこと自体は何とも思わない。ただ僕は―― が一気に燃え上がる。僕は巻き上がる火の粉の照らし出した光景 が ど こ か 別 の 世 界 で の 出 来 事 の よ う に 思 え て 立 ち 尽 く し て い た。 「誠実でありなさい」 それからすぐ、悲鳴とともに使用人と思われる女性たちが園庭へ と 避 難 し て き た 。 父 は そ の 一 人 を す れ 違 い ざ ま に 捕 ま え て「 殺 せ 」 そ の 時 ど こ か ら か 声 が し た 。 あ の『 独 房 』に 響 く 怨 念 と 同 じ 声 だ っ と僕に差し出したが、既に瀕死の散瞳し青褪めたその顔を見て僕 た 。「 や め ろ 」と そ の 声 に 向 か っ て 呟 く が 、声 は 止 ま な い 。 そ の 時 、 が何もできないでいると、父は一つ鼻を鳴らしてその女を灼けた 少年が狭い空間から飛び出して階段を駆け上っていく。 「来るな! 石の支柱へと叩きつけた。考える余裕などなく、ただ髪と肉の焼 殺人鬼の息子になってもいいのか」と少年は一瞬我を取り戻した ける不快な臭いがした。 かのように僕に叫んだ。しかし僕はそう言われて怒ったんだと思 耳の早い火事場泥棒か怒れる群衆か、投石で割れた窓からは火 う 。「 約 束 は ど う し た ? 君 だ っ て 嘘 を 吐 い た ! 」 そ う 叫 び 返 し 急 を 知 ら せ る 早 鐘 が 響 き 、『 詐 欺 師 の 家 が 燃 え て い る 』 と 半 ば 歓 ながら無心で追いかけていた。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 屋上に出ると炎の熱気と朱と臙脂に揺らめく街が迎えた。その 一 角 、 半 円 の バ ル コ ニ ー で 僕 ら は 対 峙 し た 。「 約 束 し た じ ゃ な い 「終わったか」背中から聞こえる父の声に被さるようにして轟音 か ! 」「 だ か ら 俺 は 言 っ て な い 」 も は や 水 掛 け 論 で 何 が 真 実 か は と衝撃が響いた。梁が崩れ大量の砂埃とともに熱と煙がなだれ込 定 か で は な い し 重 要 で す ら な い よ う に 思 わ れ た 。「 そ も そ も 親 父 む。その瞬間、振り向かずに濡れた鋏を投げ捨てて僕は駆け出し の 商 売 道 具 に 手 を 掛 け る か ら こ ん な こ と に ― ― 」「 選 択 肢 な ど あ た。炎が頬を掠め耳を焼き、瓦礫が身を刻むが痛みなどは感じな るものか!」本音だった。僕は逃れえない真実を口にしていた。 かった。どこをどう駆け抜けたかはわからない。着ていた麻の服 がところどころ焦げ落ち異常に脚が重い。拭う度に瞼にべっとり 「僕が殺人鬼の息子なら、君は詐欺師の息子だ」 とした液体が塗られていく。ここは何処だ? 見覚えのある場所 に近付くほど分からなくなってゆく。たった一つ掲げられた十字 せめて意味が欲しかった。でも僕らにとってはこれが生きるとい 架を除いては。 うことだった。誰のともつかぬ遺体を引きずって埋めるのも、一 助けを、救いを。僕は集中しなければ散逸してしまう思考を全 晩とはいえ誓い合った友情を反故にするのも。少年は諦めたよう 力で抱き留めてその姿を探した。避難場所としても設計されてい な顔をした。瞬間、彼はバルコニーから身を投げ出した。とても たらしく教会の門は開かれていて、火災に遭った人々が次々と避 生き残れる高さではない。僕は必死で手を伸ばした。しかし届か 難して来ていた。 ない。身を乗り出してバルコニーの手すりを抱き寄せるように必 教会のベンチは火傷を負った人や、食事が得られず泣き喚く赤 死で握りしめ、反対の手を伸ばした。落ちていく少年を掴むため 子などで騒然としていた。そこに巡回中の神父様を見つける。今 のその手には鋏が握られていて――鋏? 日の出来事を捲し立てるように話す僕をなだめ匿ってくれるとい う。手当を順番にするので待機するように命じられたが、僕はま 「誠実でありなさい」 だ悪夢の中にいるようでふらふらと歩きだしてしまった。 強く渇きを覚えた僕は、よほど朦朧としていたのか教会の後門 再びあの声がした。独房の壁に響くあの声が――意識が収束して 近くにある噴水の壁画に吸い寄せられるようにぶつかってしまっ いく。それは全て幻だった。屋上になど行ってなかったのだ。目 た。確かにそう思ったのだが……壁は予想された抵抗もなく後ろ の前には赤く華やかな夜のパレードのような臓器の街並があっ に開かれた。 て、必死にバルコニーの手すりと思い引き寄せていたのは少年の そ し て 僕 は そ の 見 覚 え の あ る 小 部 屋 に 戦 慄 し た 。『 独 房 』 … … 。 肩。 そ し て 反 対 の 手 に 握 ら れ て い た の は 鋭 利 で 大 ぶ り な 鋏 の グ 僕は何とか今すぐここを離れなければならないという気持ちに リップ、刃は深く少年の心臓へと突き刺さっていた。 な っ た が 、 そ れ は 叶 わ な か っ た 。「 罰 … … 」 背 後 か ら 聞 こ え た 声 に僕は振り返ることができないほど硬直してしまったからだ。 「街
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