触れた首筋に刻まれる温かく物悲しいリズムを知っているか? 魂が流れ出る音楽を。ところどころ土に汚れて強 ご わ つ 付いた白い毛並 みの深くに突き刺さした愛用の鋏 はさみ を引き抜くと、炎と同じ色をし た生命を燃やす液体が柳刃を濡らした。ひとつ、ふたつ、痙攣す るように小さな肢体が波を打つ。生きている。その刃をためらい なく真白い腹部に突き立て、引き上げれば、拍動する臓器の街並 みは祝祭のごとく華やかだ。僕は忘れられるのだろうか。最期の 懇願をするその瞳が鈍く濁ってゆくのを。そしてひときわ大きく 震えたのち、壊れたブリキのおもちゃのように前後させていた前 足が次第に動力を失って......止まった。 狭い厨房で下処理を終えた僕がふと顔をあげると、竈 かまど の熱を受 け る よ う に 干 し た 兎 の 長 い 腸 が 左 右 に 揺 れ て い る。 そ の 向 こ う、 視界に入った階段からは男が鈍い音とともに何かを引きずり下ろ していた。 ちょうどその男と目線が合い、僕は慌てて俯いた。また手際が 悪いだの何事か咎められるのではないかと思ったからだ。しかし 予想に反してお咎めなし。ただ送られた目線でまた仕事がひとつ 増えたことに気付きため息を吐いた。気を取り直して几帳面に手 入れをされた調理道具を並べていく。忙しい。世の子供というの はこんなにも忙しいものなのか? それはわからなかった。級友 などといった同世代の知り合いなどいないし、そもそも僕は学校 というものに通ったことがなかったからだ。浅い思考は淡い桃色 をした肉がスキレットの上で焼けていく煙に巻かれていった。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ まだまだやることはあった。それでも裏庭で真白いシーツを広 げると先ほどの兎を思い出して、僕は隅に積んでおいた小さな墓 石に花を添えることにした。取り出した鋏で茎を切ろうとして思 いとどまる。ファーネックを隔てて立ち並ぶ遠い山々のその色と 切れ目のないグラデーションをした仄青い花の。この花の命と兎 の 命 と 何 が 違 う の だ ろ う か? そ ん な こ と は 考 え て も 仕 方 が な い。僕はただ鋏をチャキリと鳴らした。 僕が鋏を持ち歩く理由は至ってシンプルだ。言いつけられてい るから。街で唯一の理 フ ィ ガ ロ 容室の息子が鋏を扱えないのもよろしくな いらしい。本当だろうか? 僕は父がまともに理容の仕事をして いるのを見たことがない。それに父は街でも相当の変わり者とい うことだ。軍を退役して家業を継いだということは、たまにやっ てくる怪しげな男たちの中にいる口の軽い輩から聞いたのだ。僕 はただ何もかもが怖かった。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ その日は『外出』の日だった。夜の街を大きな鋏を持った父に 連れられて往き、通りに沿って長く並ぶ石積みの住宅の一室にて 待機を命じられる。藻のような汚泥が散りネズミの這う階段を上 がるとき、灯りの点いた通りの向こうの窓から身を乗り出した指 をさす子供の姿があったが、すぐさま母親が引き戻した。僕はそ の時『母』というものについて考えていた。汚い者扱いされたこ とよりも。 僕に与えられた仕事は三つだけだった。灯りを二時間おきに五 分ほどつけること。一度だけ来訪者があるので速やかに扉を開い て素通りさせること。それからはもし来訪者があっても絶対に扉 を開けないこと。後は自由にしていいとのことだ。 僕は与えられた自由時間をただ無心で鋏を動かし切り絵を刻ん だ。あの仄青い花が手折られる代わりに、真白い兎の命を意味の あったものにするために? それとも扉を開けるように懇願する 誰かの声を意識の外に蹴り出すために? 果たしてその行為自体 に意味があったかはもう分からない。その『外出』の夜も全てが 終わって、出来上がった花を描いた切り絵を添えようと積み上げ た墓石に向かうと、そこには荒らされ、踏みにじられ、変わり果 てた庭の姿があるだけだったのだから。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ ま た 別 の『 外 出 』 の 日 の 帰 り だ っ た。 僕 は 父 と 並 ん で 露 店 で 買ってもらったラム肉のミートパイを頬張っていた。珍しく...... というには記憶にない。おそらく初めてのことだった。それくら いのことだから残っているのは質の悪い油の感触だけで当然味な んて覚えていない。簡便な昼食というだけで父にとっては特に意 味などないのだろう。それでも僕は嬉しくてチラチラと父のこと を見やっていた。しかし彼の目線はある一点を捉えている。そこ には身なりのいい裕福な家庭の父と子が一匹の犬を散歩させてい た。その時、路地で立ち話をする婦人が資産家を指して「詐欺師 が犬連れてるよ。どっちが犬だか」などと陰口を叩いているのが 聞こえる。それを聞くなり父は 「犬か......確かにちょうどいいな」 と、そう呟いた。瞬間、僕はその意味を察して必死に断った。思 いつく限りの言い訳をしたと思う。ささやかな抵抗だったけれど 僕は意味のないことはしたくなかった。けれど次の一言で全てが 決まってしまったのだった。 ――『 独 房 』 。 僕 は ど の 家 に も そ う い っ た 設 備 が あ る と 思 っ て いたのだが、どうやらこの理 フ ィ ガ ロ 容室だけらしい。その言葉を聞くだ けで、機械式の音声再生装置から掠れて怨霊のようになった短い フレーズが延々垂れ流される暗闇の空間の、じっとりと湿る床か ら無数の脚をもつ生物が這い上がってくる感触が吐き気のように 迫り上がってきて、わずかばかりの理性を埋め尽くしていく。 そ れ か ら ど れ く ら い の 時 間 が た っ た だ ろ う か。 気 付 け ば 僕 は 理 フ ィ ガ ロ 容室にいて、極めて清潔に保たれていた厨房の床が胃液で穢れ ていた。意識から取り残された荒い吐息が自分のものと理解する と、それと重なるように湯気が漂ってくる。その元である火にか けられた大鍋にはグツグツと煮られている何らかの肉料理が出来 上がりつつあった。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ あくる夕刻、 僕は週ごとの買い物をすべく街へ繰り出していた。 細 か い 日 用 品 や 買 い だ め の 食 材 を 手 に 入 れ る た め だ。 父 か ら 預 かった小額紙幣はいつも必要より幾分か多かったがそれで何かを 買い食いしたりしたことはなかったし、そのような気になったこ とすらなかった。罰があるからじゃない。実際、財布を落として し ま っ た と き な ど は 蒼 白 に な っ た が 咎 め ら れ る こ と は な か っ た。 かと思えば深夜にどうしてもお腹が空いてしまってトマトを齧っ た時などは......。ミートパイと犬。あの一件以来僕は悩んでいた。 こんなことを考えたのは初めてだった。目を閉じると幸せそうな 親子の姿が思い浮かんで仕方がない。 何が必要で、 何の意味があっ てそう指示したのか。どうしても父の基準が分からなかった。 どうも僕は頭の回転は速くない割に考えるのは嫌いではないら しい。買い物を終えたにもかかわらず思索に耽っていると見慣れ ない建物にたどり着いていた。そこは教会のようだった。完成し た光景を見るのは初めてだったから突然に現れた綺麗な建物に僕 は見とれてしまっていたのだ。 そのとき「見学していかれませんか?」と、どこからか男の声 がした。現れた祭服の神父様は何も考えられないという風に立ち 尽くす僕をただ微笑みながら見つめていた。瞬間、僕は父が教会 嫌いだということを思い出し、一言「すみません」と告げると逃 げるようにその場を後にした。背中から一言「また明日」そう聞 こえたような気がした。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ た だ そ の 日 が あ る だ け の 僕 に 明 日 な ど は な か っ た。 『 外 出 』 で はない外出をできる時間を取ることなどできない。そう思った僕 は気付けば踵を返していた。神父様に招かれて入ったのは、まだ 一般に開かれていないのか誰もいない真新しい教会。その輝くス テンドグラスへと差し込む夕陽の咎めに溶けてしまいそうだった 僕は、 黒い『懺悔室』と呼ばれる部屋へ逃げ込むように入っていっ た。 果 た し て こ れ は 正 解 だ っ た の か。 そ れ も ま た『 分 か ら な い 』 という箱に大事にしまっておく以外にはなさそうだ。 もし全てを吐き出したのならば喉が張り裂けてしまいそうだっ た僕は、犬の一件だけをほとんどを伏せ、なるべく柔らかい表現 を使って神父様に話した。事故で見知らぬ人の飼い犬を傷つけて しまったと。彼は黙ってそれを聞いていた。 覚えていたのはそこまでで、その帰りを僕はどこをどう歩いた のか定かではなかった。持っていたはずの荷物は何もなく、果て のない焦燥に駆られていた。ただ一つ覚えていたのは最後に神父 様が言った『誠実でありなさい』という言葉だけで、その一言が ずっと『独房』の壁に塗り込められた残響のように耳の奥で鳴っ ていた。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 最悪の事態は免れた。そう思った僕は惰弱だろうか? 戦慄の あまり「もしかしたら荷物を無くした罰などないのでは」と一瞬 考えてはみたもののそんなわけはなかった。それでもやっぱり最 悪 の 事 態 は 免 れ た と 僕 は 思 っ た。 恐 れ て い た よ う な 怒 り は な く、 父は買い物のやり直しと夕食抜き、ベッドで眠らず炉の番をする よう僕に命じたのだ。 これもやはりどこの家庭にもあるものと思っていたのだけれど そ う で は な い ら し い。 『 精 製 炉 』 は 理 フ ィ ガ ロ 容 室 で 二 番 目 に 居 た く な い 場所だ。まずなにより狭い。子供とはいえ背の高い僕は頭をぶつ けないよう屈まないとならないし、半地下にあるため窓は換気用 に壁の上部五分の一くらいの場所に二つがあるだけだ。それに加 えて、青白く光る炉の胎内から何かが言葉ではなく意識や体験の 断片といった形で伝わってくるのだ。一晩中それに付き合わされ るのが苦痛でなかったら何なのだろうか。 深夜、朦朧とした意識の中で炉を絶やさぬように小さな結晶を 焼 く べ る と、 そ こ か ら 見 た こ と の あ る よ う な 顔 が 現 れ た。 『 僕 の 犬 を返して』現れた少年にそう言われたような気がして僕は座って いた椅子を倒して飛び上がってしまった。拍子に頭を狭い天井に ぶつけてしまい身悶える。炉の見せる幻覚だと理解した僕が落ち 着きを取り戻すが、またしても同じ声がする。 「――おい、おいっ て ば!」 と。 僕 は 周 囲 を 見 渡 す が 当 然 な が ら ど こ に も 誰 も い な い。ただ轟 ごう と炉の燃える音がするだけだ。 しかし 「こっちだよ!」 と声のする換気用の窓を見やったとき、僕は再び驚いて頭を天井 にぶつけてしまった。頭を摩りながら視線を送った先に「なにを しているんだよ」と言わんばかりに目を覆う少年の姿があったか らだ。 僕は父に悟られないかとても心配だったが、そのままにしてお くわけにもいかずその少年を窓から迎え入れた。小柄な、ともす れば少女にも見えるほど華奢な少年、その見覚えのある顔を見て 僕は三度天井と相まみえる羽目になりかけた。それをどこ吹く風 といった感じで少年は持ってきたであろうものを手渡す。中身の 入った買い物籠だった。 まごついている僕に彼は驚いたようで 「覚 えてないのか?」と言う。どうやら露店に寄った日に見かけたこ とではなく、教会の帰りに出会って少し話をしたことらしいがそ ちらはさっぱりだった。 燃え盛る炉を一瞥して、少年は「気持ちわりぃ」とだけ言うと 僕 が 何 か 言 う の を 待 っ て い る よ う だ っ た。 僕 は「 あ の ......」 と、 うろたえることしかできなかったが、そこへ少年が「やっぱりお 前がやったのか?」と甲高いのをわざと低くしたような声で言う ので僕は犬のことだと思い、黙って頷いて答えた。 「どうして?」 と少年は尋ねた。それに僕は「分からない」と答える。本当にそ う 思 っ た か ら だ。 少 年 は し ば ら く 炉 を 見 つ め て、 「 別 に 犬 が 大 事 だからじゃない。あれは親父の商売道具だ。俺にはどうでもいい」 そう言った。内容はもちろん、身なりに反した腹を割った態度に も僕は呆気に取られていた。追い立てるように少年が「嘘を吐く な。理由を言え」と続けると僕は少し泣きそうになるが、がしり と 胸 倉 を つ か ま れ そ の 目 元 に た ま っ た 涙 を 引 っ 込 め さ せ ら れ る。 そうしたかと思えば急に手を放し、落ち着いた声で「行こう」と 彼は言った。 そ れ か ら 炉 の 番 が あ る と 何 度 も 渋 る 僕 を 強 引 に 連 れ 出 し た 彼 に、僕はありのままを話した。理 フ ィ ガ ロ 容室について、父について、 『外 出』 について、 そして兎や犬を殺めたことについて。彼もまた語っ た。分刻みのスケジュール、貴族の欺き方から女性の抱き方まで の教育、一族の繁栄のために犠牲になるべきという思想......夜さ りも近い頃、街の中央に掛かっている石橋から遠く山々を眺めて 彼 は 言 っ た。 「 言 い な り に な る の は も う 止 め よ う。 結 局 お 互 い 親 父みたいになっちまう」そうして「こんな服なんか着たくないん だ」と上等な上着を橋から投げ捨てた。やはり浅はかだろうか? 僕は父親に言われるまま商売を継ぐことをよしとしない彼に、夢 を語る輝かしい瞳を持つ彼に、僕は強い共感を覚えたんだ。そし て最後に彼はこう言った。 「 許 す! 無 益 な 殺 生 は 嫌 い だ が お 前 は 正 直 に 話 し た か ら な。 今 日のことは二人だけの秘密だ」 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 翌日。買い物籠は戻ったものの言いつけられていた買い物に出 ないわけにはいかず僕は途方に暮れていた。行く当てなどなかっ たからだ。眠い目を擦って昨夜の少年を探してみるがそんな都合 よく見つかるわけもなく、彷 さ ま よ 徨った目線に飛び込んできた教会も 人が集まっており、なんとなく後ろめたくて向かう気にはなれな かった。結局悪くなっていた食材だけを買いなおして戻った僕を 迎えたのは鈍く鳴る樫の扉ではなくいくつもの遺体だった。 さながら雨上がりの廃品置き場。大量の血液が放つ錆びた金物 の臭いに下処理に失敗した獣の肉のような腐臭が混じって周囲を 穢している。もし初めてこの臭いに遭遇したならば吐き気だけで は済まなかっただろう。僕は......初めてじゃなかった。武装した 『 な ら ず 者 』 と い っ た 風 貌 の 男 た ち だ っ た 肉 塊 を 見 下 ろ し て い る と、 理 フ ィ ガ ロ 容 室 か ら 父 が 現 れ、 「 片 付 け て お け 」 と だ け 言 っ て ま た 奥 へと去っていく。 僕は何があったのかを尋ねようと迷っていたが、 尋常ではなくギラついた眼光を見て断念した。それと同時だった か、 奥 か ら う め き 声 の よ う な も の が 聞 こ え る。 『 独 房 』 だ。 僕 は 直感した。ぞわりと身体中の体毛が直立していった。深く呼吸を しようとして腐臭を思い出し嘔 え ず 吐いてしまう。僕はもう泣きなが ら意識を失わないように水をかぶって ならず者 の遺体を庭へ 引きずっていった。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ この日はいい夜だった。何事もなければ――とりわけ小さな街 というわけではないが、それでも似つかわしくないほど大きな都 会風の邸宅、その鉄門を守る壮年の男の絶命する短く低い掠れ声 が格子を揺らした。 『独房』で聞き出した、 刺客 を差し向けた 相手への報復が始まったのだ。同行を言いつけられた際に理 フ ィ ガ ロ 容室 が襲われた理由を尋ねると、父は「犬だ」と簡潔に答えた。続け て尋ねた「犬の仕返しであんなことを?」という僕の問いに父は 答えなかった。いずれにせよ僕は気付いてしまった。そして同時 に どうして という疑問で頭の中がいっぱいになった。 邸宅の門を抜け、手にした大きな鋏を肩に担ぐと父はおもむろ に取り出した酒瓶に咥えていた火のついた紙巻き煙草を落として 放り投げた。乾燥した空気を伝って手入れの行き届いた短い芝生 が一気に燃え上がる。僕は巻き上がる火の粉の照らし出した光景 が ど こ か 別 の 世 界 で の 出 来 事 の よ う に 思 え て 立 ち 尽 く し て い た。 それからすぐ、悲鳴とともに使用人と思われる女性たちが園庭へ と避難してきた。父はその一人をすれ違いざまに捕まえて 「殺せ」 と僕に差し出したが、既に瀕死の散瞳し青褪めたその顔を見て僕 が何もできないでいると、父は一つ鼻を鳴らしてその女を灼けた 石の支柱へと叩きつけた。考える余裕などなく、ただ髪と肉の焼 ける不快な臭いがした。 耳の早い火事場泥棒か怒れる群衆か、投石で割れた窓からは火 急 を 知 ら せ る 早 鐘 が 響 き、 『 詐 欺 師 の 家 が 燃 え て い る 』 と 半 ば 歓 喜にも似た尖り声が遠く聞こえてきた。屋内では斑に模様の入っ た石の廊下に人影がたおれており、その中にはいくつか知ってい る顔もある。金で父を裏切った者たちなのだろう。しかし虱潰し にしたはずの屋内に家主であり、 標的であろう資産家の姿がない。 そのとき、ふと父が階段で足を止めた。そしておもむろに石の段 板をはずすと、そこには昨晩出会ったあの少年が狭い隙間に震え ながらうずくまっていたのだった。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 「 五 分 だ 」 父 は 一 言 そ う 言 う と、 僕 の 手 に 先 端 の 鋭 利 な 大 ぶ り の 鋏 を 握 ら せ て そ の 場 か ら 去 っ た。 そ れ か ら 少 し の 沈 黙 の 後、 「 ...... ど う し て?」 と、 僕 は や っ と の こ と で 彼 に 尋 ね た。 彼 は 何 も 言 わ な か っ た。 「 君 が 言 い つ け た の か?」 僕 は 鋏 を 下 ろ す。 す ると震えるような声で彼は否定した。僕も信じたかった。あの豪 気な少年がいまや容姿と同じ、 少女のように怯えているのだから。 け れ ど あ の 刺 客 の せ い で 僕 も 死 ぬ か も し れ な か っ た。 い や、 死ぬこと自体は何とも思わない。ただ僕は―― 「誠実でありなさい」 その時どこからか声がした。あの 『独房』 に響く怨念と同じ声だっ た。 「やめろ」 とその声に向かって呟くが、 声は止まない。その時、 少年が狭い空間から飛び出して階段を駆け上っていく。 「来るな! 殺人鬼の息子になってもいいのか」と少年は一瞬我を取り戻した かのように僕に叫んだ。しかし僕はそう言われて怒ったんだと思 う。 「 約 束 は ど う し た? 君 だ っ て 嘘 を 吐 い た!」 そ う 叫 び 返 し ながら無心で追いかけていた。 屋上に出ると炎の熱気と朱と臙脂に揺らめく街が迎えた。その 一 角、 半 円 の バ ル コ ニ ー で 僕 ら は 対 峙 し た。 「 約 束 し た じ ゃ な い か!」 「 だ か ら 俺 は 言 っ て な い 」 も は や 水 掛 け 論 で 何 が 真 実 か は 定 か で は な い し 重 要 で す ら な い よ う に 思 わ れ た。 「 そ も そ も 親 父 の 商 売 道 具 に 手 を 掛 け る か ら こ ん な こ と に ――」 「 選 択 肢 な ど あ るものか!」本音だった。僕は逃れえない真実を口にしていた。 「僕が殺人鬼の息子なら、君は詐欺師の息子だ」 せめて意味が欲しかった。でも僕らにとってはこれが生きるとい うことだった。誰のともつかぬ遺体を引きずって埋めるのも、一 晩とはいえ誓い合った友情を反故にするのも。少年は諦めたよう な顔をした。瞬間、彼はバルコニーから身を投げ出した。とても 生き残れる高さではない。僕は必死で手を伸ばした。しかし届か ない。身を乗り出してバルコニーの手すりを抱き寄せるように必 死で握りしめ、反対の手を伸ばした。落ちていく少年を掴むため のその手には鋏が握られていて――鋏? 「誠実でありなさい」 再びあの声がした。独房の壁に響くあの声が――意識が収束して いく。それは全て幻だった。屋上になど行ってなかったのだ。目 の 前 に は 赤 く 華 や か な 夜 の パ レ ー ド の よ う な 臓 器 の 街 並 が あ っ て、必死にバルコニーの手すりと思い引き寄せていたのは少年の 肩。 そ し て 反 対 の 手 に 握 ら れ て い た の は 鋭 利 で 大 ぶ り な 鋏 の グ リップ、刃は深く少年の心臓へと突き刺さっていた。 ✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂✂ 「 終 わ っ た か 」 背 中 か ら 聞 こ え る 父 の 声 に 被 さ る よ う に し て 轟 音 と衝撃が響いた。梁が崩れ大量の砂埃とともに熱と煙がなだれ込 む。その瞬間、振り向かずに濡れた鋏を投げ捨てて僕は駆け出し た。炎が頬を掠め耳を焼き、瓦礫が身を刻むが痛みなどは感じな かった。どこをどう駆け抜けたかはわからない。着ていた麻の服 がところどころ焦げ落ち異常に脚が重い。拭う度に瞼にべっとり とした液体が塗られていく。ここは何処だ? 見覚えのある場所 に近付くほど分からなくなってゆく。たった一つ掲げられた十字 架を除いては。 助けを、救いを。僕は集中しなければ散逸してしまう思考を全 力で抱き留めてその姿を探した。避難場所としても設計されてい たらしく教会の門は開かれていて、火災に遭った人々が次々と避 難して来ていた。 教会のベンチは火傷を負った人や、食事が得られず泣き喚く赤 子などで騒然としていた。そこに巡回中の神父様を見つける。今 日の出来事を捲し立てるように話す僕をなだめ匿ってくれるとい う。手当を順番にするので待機するように命じられたが、僕はま だ悪夢の中にいるようでふらふらと歩きだしてしまった。 強く渇きを覚えた僕は、よほど朦朧としていたのか教会の後門 近くにある噴水の壁画に吸い寄せられるようにぶつかってしまっ た。確かにそう思ったのだが......壁は予想された抵抗もなく後ろ に開かれた。 そして僕はその見覚えのある小部屋に戦慄した。 『独房』......。 僕 は 何 と か 今 す ぐ こ こ を 離 れ な け れ ば な ら な い と い う 気 持 ち に な っ た が、 そ れ は 叶 わ な か っ た。 「 罰 ......」 背 後 か ら 聞 こ え た 声 に僕は振り返ることができないほど硬直してしまったからだ。 「街